部長ブログ
小児泌尿器科医からのメッセージ
ラストラン

横浜で桜が開花した。65歳、定年退職を前にしてお別れ講演を依頼された。自分は最終日なので、異動していく若い医師や同年代でやめられる先生方の講演を聞く。こども医療に来るまでの履歴からはじまり、こども医療で学んだことや学術発表がミックスされ秀逸なプレゼンが多い。僕は何を話そう。年寄りの話はだいたい自慢話か昔話。最初で最後なのだからそれでいいじゃないかと思う。それでも何か伝えたい。お前が伝えたい事は何だ!

医者になった頃は自分が基本的な外科研修を受けてないと焦燥感にかられた。一年目、高知の病院に赴任する時には浦戸大橋をサンフラワーから見上げて、飛び込んだらどうなるのかと思った。大学でチームリーダーを担った頃は、毎週泊まり込みの生活で疲弊した。全てがむなしくなりバーンアウトして通勤電車から降りられなかった。希望がかなってトロント小児病院に留学したが、帰国後は何年も働く場所が見つからず、フルタイムの小児泌尿器科医になるチャンスはないかもしれないと憂えた。帰宅途中、天に向かって「俺を使わないのか!」と叫んだ夜もあった。こども医療に職を得てからは、人材が来てくれるかどうか毎年苦悩した。困難な手術をすれば毎回術後の不安にさいなまれた。術中のコンパートメント症候群で、もし患児の足が壊死したら医者をやめようと思った夏もあった。

ふりかえるとネガティブな昔話ばかりだ。それはそれで人生に色をつけてくれたエピソードだ。しかし、伝えたい事とは違う。じゃあ自慢話はどうだ。北米の小児病院に留学するという目標、目的はフルタイムの小児泌尿器科医になること、年間何百件の手術をするという目標、オリジナルな術式を論文にするという目標。自分の「目標」や「目的」をたて、それをどう達成しようとしたか、などは話のネタにはなるが、伝えたい事ではない。

結局、伝えたいことは「感謝」なのだ。家族への感謝、患者への感謝、同僚への感謝、支えてくれた全てのスタッフへの感謝、そして何よりも今生きている自分自身への感謝。感謝の気持ちがあれば自分を見失わない。僕は今日もここにいる。来たときも、去るときも、お前はいつもお前であって他の何物でもないのだ。くじけようが、老いようが、自分は今、ここにいるのだ。走っているのだ。現役ラストランは万全のコンディションではない。再びアキレス腱痛を引きずっての42.195キロ。それでも感謝の思いを胸に明日は走るぞ。

部長ブログは今回で終了します。ありがとうございました。
神奈川県立こども医療センター泌尿器科
山崎雄一郎
今に集中する

2月はまたたくまに過ぎ去る。外来で長く見てきた患者さん達に定年退職を告げることも増えた。4月以降は非常勤で移行期の患者さんのサポート外来を行う予定だが、いつまで続けられるかはわからない。医学部卒業後に外科医から始めて、腎移植、泌尿器科を学び、10年目にトロント小児病院で小児泌尿器を専門にすると決めた。それから30年がたつ。先の見えない不安の中であがき続けた大学所属の20年。そして天が与えてくれたこども医療センターでの20年。

小児の再建外科手術を志し、高みを目指した。手術記録を見直すとオーバーナイトの手術をいくつも経験した。されどいまだ道遠し。学会などで「専門家」とちやほやされた時期もあるがエキスパートなどほど遠い。思い出すのは上手くいった手術ではなく、つまずいた手術ばかり。結果がついてこなくて再手術したこともあれば、予想外のトラブルでの手術もあった。その度にこどもたちに辛い思いをさせてきた。不安と不満を潜めた両親との話し合いにはいつも全力で対応した。多くの場合は理解を得られたが、得られないこともあった。成人になるまでに5回も6回も、いやもっと手術を繰り返したこどももいる。そんなこども達が外来に来て「大学に通ってます」「就職しました」など、はにかみながら見せてくれる笑顔に救われてきた。親からは「ありがとうございました」といわれるが、僕の方こそこども達に「元気になってくれてありがとう」と思ってきた。

しかし腫瘍があったこども達の中には「上手くいったはず」の再建手術後10年以上たってから問題が生じたり、再建術式が状況を難しくした患者さんもいる。先日、成人病院に毎月かかりながらも僕の移行期外来に30歳過ぎまで通い続けてくれた患者さんが受診された。乳幼児期に腫瘍の手術をのりこえたが思春期に腎障害になり腫瘍部より紹介された。複雑な尿路再建術が成功したと思ったが、10年後にまさかの大出血を来して再手術、その後も幾多の困難を乗り越えて今なお大変な状況の中、移行期外来を受診し続けてくれた。近況を確認し、最後に「来年も来てもらっていいんだよ」と声をかけた。「いえ、今日で最後にします」と穏やかだが、はっきりした声で返事をされた。出て行った後の診察室の扉を僕はしばらく見ていた。

赴任して間もない時期に紹介され、幼児期に腫瘍摘出と同時に高度な尿路再建手術を長時間かけておこなったお子さんも忘れられない。腸閉塞は経験したが術後16年間のフォローは概ね順調だった。大学受験にのぞんだその最中に二次癌が判明。それは僕の手の届かない領域だった。亡くなられて半年後に母親が手紙を届けてくださった。そこには全てを受け入れた中で、彼の希望にあふれた最後の想いがつづってあった。

再建外科に憧れて小児泌尿器を選んだ。再建できる機能は限られている。それでも外科医であることにこだわってきた。手術をするから外科医なのだ。引き際はゆっくりと近づいている。最後まで「今」に集中しよう。

2023年2月 別府大分毎日マラソン40k付近
なぜ走るのか

正月明けのブログには駅伝の余韻もあってか、ここのところ趣味のランニングのことを書く事が多い。趣味とはいっても一年365日、走らない日はオーバーナイトで手術をした翌朝ぐらいしかない。天候はあまり関係ない。晴れがあるなら雨があり、暑い日があれば凍るように冷たい朝もある。それが屋外を「走る」ということだと割り切ってしまえば、どんな天候でもさして気にならなくなる。今や僕にとってランニングは起床時にその日のコンディションを整えるためのルーティンとなっている。休日には座禅を組むが如く公園を黙々と2時間以上ぐるぐる回っていることも珍しくない。

なぜそんなに走るのか。運動が体にいいことは誰もが知っている。体重が適正になる、血圧が下がる、コレステロール値も血糖値も下がる。認知機能やメンタルヘルスにもいい、そういった医学的エビデンスは山のようにある。運動が予後改善に役立つ癌もたくさん知られている。おそらく先進国の30代以上の成人が一日30分、週4日走ったら降圧剤や血糖降下剤、抗うつ剤などの使用量は激減して製薬会社の売り上げは大きく減るだろう。哺乳類は一生に打つ心拍数が決まっているのに走って心拍数をあげて寿命を縮めているだけさ、という人がいる。そんなことを僕は信じないが、走っているとき脈が増えても安静時は40前後になるから一日全体での心拍はかなり少ない。

しかし僕の場合は、もはやそういうことのために走っているわけではない。いくら慣れてて疲れないといっても毎朝4時過ぎから10~15キロも走るのは60台半ばの体にはやや過剰かもしれない。外科医になった20台から週末はジョギングをしていたが50台前半までは健康維持とストレス解消だった。55歳でRUN FOR KIDSを立ち上げてからは走ることでこども医療センターにチャリティーを根付かせたいと自分を奮い立たせた。ハードロックで気持ちを高め、走る頻度も速度も増した。走る距離が伸びることでマラソンレースのタイムが短縮して60歳でサブスリーを記録したら雑誌に取材されて天狗になった。

それから長く続くアキレス腱炎、足底筋膜炎を経験し、速く走れない日々が続いた。アスファルトの上ではなく不整地をゆっくり走ることが増えた。冬の早朝などは散歩している人に抜かれそうになるほどゆっくり走り始める。音楽は聴かない。代わりに禅マインドである。「呼吸」と「姿勢」だけに集中する。最近感じるのはスマホやパソコンを見ない時間が精神のリラックスに必要不可欠だと言うこと。走っているときは当然見ない。画面をみていると常に脳が刺激され疲弊する。体のリラックスには風呂にゆっくり入って寝るに限る。しかし寝ていても夢で気持ちが休まらない事がある。精神を本当にやすめる方法の獲得は難しい。今の僕にとってそれがランニングである。集中するためにリラックスする。体と精神、Not two, and Not one.

ドクター・チャーチル part 2

1993年1月初頭。厳寒のトロントに着いて住居も決まらぬまま雪降る中をSick Kidsに向かった。初日に顔を出すと秘書からDr. Churchillは手術中とのこと。見学のつもりで手術室に入るなり身振りで手を洗ってこい。第二助手のポジションにはいり手術を見ながらハサミで糸を切る。とその時、いきなり怒声 “Don’t do that!” 最初はワケがわからなかった。外科医として10年キャリアを積んできて、たかが糸切りでここまで怒鳴られるのか。結局僕のハサミの出し方がラッシュで、カーブしたハサミの先端が術者に見えず、かつ第二助手のポジションから斜めに乳児の陰茎の上を越えるように出されて危ない、ということで叱られたわけだ。ともあれ英語もままならない初日の手術で頭上から怒鳴られ、おびえとともに僕の留学生活は始まった。

月曜の早朝は7時からレクチャーである。小児泌尿器フェロー5名、レジデント1名だけを相手にDr. Churchillが今日はこのトピックスをやろうと宣言。誰かを当ててそれについて述べさせる。たとえば腎臓と膀胱をつなぐ尿管には先天異常も多いが、尿管の役割をいってみろ、という感じである。ここでホースの様な管などと言おうものなら、次!となる。「尿管にはコンプレッサーとしてのポンプの役割、尿流を一方向に向けるコントロールメカニズム、さらには尿自体をストレージする役割、それに加えて管としての役割がある。じゃあ尿をトランスポートさせるときに働くパラメーターと基本法則はなんだ!」 流量、圧較差、管腔の半径・長さからなる抵抗値、そして流体粘度。ポアズイユPoiseuilleの法則である。膀胱の役割は何だ。ストレージとトランスポートとプロテクション。ストレージで働くパラメーターは? 張力、圧力、そして半径、ラプラスLaplaceの法則だ!白板に3つを結ぶ三角形を次々と書きながら全員を見据える。

正直目が点になった。循環器をやっている人間ならともかく、消化器外科や泌尿器科をやってきて尿路を流体力学から教えられたことははじめてだった。Dr. Churchillは尿路に働く力学が破綻したときにinjury(腎障害), incontinence(尿失禁), infection(尿路感染)の3つの「I」が生じると言う。毎週のレクチャーはフェロー仲間の間でtorture(拷問)と言われるほど質問攻めだったが、とても新鮮だった。レクチャーが終わると解散してDr. Churchill担当フェローとナースマネジャー、セクレタリー、ケースワーカーなど多職種が集まってその週の手術患者会議が始まる。フェローのほとんどは米国から来ておりレントゲンを交えながら手慣れたプレゼンで10-15名の手術患者を紹介していく。しかし膀胱尿管逆流症例など逆流のことだけ評価したプレゼンをしてもすぐにダメ出し。尿路の10ポイントを押さえなければ退場。「分腎機能はこうで、腎盂尿管移行部はこう、尿管の拡張はなく、尿管膀胱接合部は逆流4度ですが閉塞はありません、それはこの画像検査で評価し、膀胱機能はこうで膀胱出口は正常。後部尿道も正常、そして感染歴はかくかくしかじか・・・、以上をこの一枚のイラストにすべて図示記載しました!」で、はじめてOKが出る。

月曜はそのあと外来。火曜以降は毎日手術。僕は英語がおぼつかなく、とても外来を任される状況ではなかったので1年間ずっとDr. Churchillにくっついて見学させてもらった。患児や家族を前にしたチャーチル先生は打って変わって優しさあふれる笑顔で、”I am Dr. Churchill”と切り出す。当時の日本で名前を先に名乗る医者は少なかった。外来の合間に彼は僕に医者の3つのNoを告げた。名前を名乗らない(No name)、知識がない(No knowledge)、決断力がない(No decision making)、である。とりわけ名前を名乗らない、名札をつけないのは患者とコミュニケーションを取ろうとする姿勢がないのだと切って捨てた。Communication is everything! なんど聞かされた言葉だろう。

Sick Kidsに在籍している間、チャーチル先生の前ではいつも緊張していた。筋鈎を引くのも、糸をきるのも集中した。彼は厳しい表情で ‘ You can train yourself to relax ‘ と言うのだがリラックスなど出来ようもない。でも学ぶ楽しさがあった。手術・診療において鍵となる技術と知識を的確な言葉で伝えてくれた。そして手術の現場には常に彼の確信があった。Surgery is a craft of conviction
困難な手術に向かうとき最後は術者が確信を持っているかどうかだ。

チャーチル先生はその後カリフォルニア大学に移られたが、訪日も含め毎年のようにお会いする機会があり、会えばやさしい笑顔でハグしてくれた。トロント時代には考えられない事である。最後にお会いしたのは2017年のモントリオール。スポーツ好きの先生に「ボストンマラソンに出ますよ」といったら「おまえはBoston Qualifyingか!」といって驚き喜ばれた。2018年に完全リタイアされた。僕はDr. Churchillに教わって本気でフルタイムの小児泌尿器科医になろうと決意した。しかし・・・あのトロント時代の師匠をいまだ超えられない。

ドクター・チャーチル part 1

師走にはいった。このブログを書くのも残り数回だろう。今までも折に触れ書いてきたが、恩師チャーチル先生の事は書き残しておきたい。医者になってから教えを受けた先生は多い。中でも若かりし頃、臨床のみならず公私ともにお世話になったのが、泌尿器科では東京女子医大の東間紘先生、外科では玄々堂君津病院の高田真行先生がいらっしゃる。しかし、今の僕の専門である小児泌尿器について根底からたたき込まれた先生といえばトロント小児病院時代のDr. Bernard M. Churchillである。30年前に彼から教わった術式で現在そのまま踏襲しているものはない。しかし彼に教わった原理原則、彼の言葉が治療方針で悩んだときの判断のすべとなり、今でも指導するときの基盤になっているといって過言ではない。

医者になって8年目、僕にとってはじめて出席する米国泌尿器科学会がカナダのトロントで開催された。1991年当時、移植外科の合併症管理の激務でうつ状態になり、やっと立ち直りかけた僕に国際学会出席を勧めてくれたのは東間教授であった。せっかく学会で北米を訪れるのであれば興味を持っていた小児泌尿器を専門病院で見学したいと考えボストンとトロント小児病院を学会のあとに3週間見学した。ボストンは尿路再建の手術書に必ず名前が載っていたDr. Hendren、そしてトロントはDr. Churchillのもとを訪れた。

正直自分は当時小児外科・小児泌尿器科分野のことをほとんど知らなかった。当然Dr. Hendren、Dr. Churchillがどんなに高名な先生かなんて知らない。とりわけボストンのDr. Hendrenは60台半ばの世界的な小児外科の大御所で、ヨーロッパからも見学医師が多く訪れていた。やっていた手術も総排泄腔遺残の再手術などで当時の僕にはまったく知識も経験もない領域。Dr. Hendrenはバカな若者を相手にしないので最初の訪問時は深夜まで手術室にいたものの、怖かった印象しか残っていない。

トロントでは幸いなことに見学期間に膀胱尿管逆流、停留精巣、水腎症といったなじみの手術を見れた。Dr. Churchillは50台の気鋭のプロフェッサーで身長は190cm近くある。初めての見学時には笑顔が多いといった感じの先生ではなかった。しかし停留精巣の様な小さな手術でもフェローに対して、「剥離は面と面をseparateしろ」「深さのある三次元の術野を作れ」「鍵はblood supplyだ」そして決めぜりふは「Think first! Move second!」。ヘッドライトとルーペ越しにぎろっと見据えて徹底的に指導する。その雰囲気の中でも丁寧で正確な手術が進んでいくのを見て感動し、見学が終わるときには決めていた。僕はここでDr. Churchillに教えてもらおうと。そして1993年、真冬のSick Kidsに留学した。